2009年度は、「地域で、戦争のことがわかるもの調べ」を総合の課題にしているので、
地域探検で見つけたものを加えて作りました。



2009年度東小学校4年生の平和集会での取り組み 8月7日 (08年度の取り組みを進めたものです。)

「青い目の人形」知っていますか。2
<内容>
 今から80年ほど前の1927年にアメリカ合衆国から日本の小学校などにおくられた人形です。
どうして、人形が 日本に おくられたので しょうか。 だれが おくったのでしょうか。
その前に当時の様子を知ってください。

130〜140年ほど前の日本は あまり ゆたかな 国では ありませんでした。仕事がなくて 外国へ家族で働きに
出ていく人が たくさん いました。 がんばって 働いたのですが その国の人から 仕事をうばってしまい、きらわれました。
また、日本は、朝鮮・中国へ、軍隊を送り、支配 しようとして いました。
中国やロシアと戦争もしました。
 アメリカでは、日本がなまいきだという声が高まり、 日本人を アメリカから追い出す法律まで できました。

日本に住んだことのあるキリスト きょう せんきょうし シドニー・ギューリック さんは、アメリカの 人たちに日本のことを
わかってもらおうと、 日本に、友情の 人形を おくる運動を 1926年にはじめました。

ギューリックさんの 呼びかけに  2,600,000人の人たちが  お金を出しあって12,739体の 人形を買いました。
そして、人形1体ごとに 名前を つけ、服を作り着せました。
本物そっくりのパスポートを  持たせ、日本におくりました。

「青い目の人形」は、1927年 (昭和2年)3月3日に日本で かんげい会を 受けました。 そのときの 歌です。
そして、日本中に配られました。 東京には 568体 大阪には 429体 愛知県には 349体。
 そして 三重県には、194体きました。

<東小学校の百年誌に載せられていた「青い目の人形}歓迎式展>の写真(08年度掲載)

ひな壇を拡大しました。どんな人形が並んでいますか。(日本人形とアメリカ人形が並んでいます。)

かんげいの式が行われた東小学校(二郷村立尋常高等小学校)の校舎。(写真を見せる)
この校舎はどこにありましたか?  今のどこ?

昭和二十年五月十四日の紀伊長島駅の被災図に学校が出ています。
第1棟は昭和十年に建てられた二階建てです。
 二郷村立尋常高等小学校は今の東長島公民館のところにあったのですね。


紀北町では、引本小学校で4月4日アメリカ人形かんげい会をしたきろくが 残っています。かなり、にぎやかなかんげい会
だったと言っていました。 尾鷲小学校にも、来たと 聞きました。
多気の相可小学校でのかんげい会の写真。東小学校と同じように並べてあります。きっと全国の小学校では同じような
かんげい会をしたと思います。

 引本小学校におくられた人形は、 ガラスのケースにいれられ 大切にかざられたと聞きました。
東小学校の青い目の人形もきっと大切に されたと思います。

日本からも おれいに58体の 高級な人形を おくりました。 三重県の人形は「三重子」です


1941年、日本は  アメリカを はじめ たくさんの 国々を 相手に 戦争を  始めました。

軍隊は、国民が戦争に協力するように ヨーロッパの音楽や 英語を禁止しました。
「敵国の青い目の人形を こわせ」という命令も出ました。 新聞にも「たたきこわせ 青い目の人形」の記事が でました。
日本の各地で、人形がこわされたり、やかれたりしました。                (昭和16・17年ごろ)

でも、先生たちのなかに「人形がわるくない」とこっそり、人形をかくした先生がいました。
職員室の 天井裏、理科室、資料室、 自分の家などにかくしました。
引本小学校では、 2階のさいほう室の天井裏に かくされました。

また、三重県一志郡嬉野町立豊地小学校。「グレースちゃん」は当時の校長先生が「可愛らしい人形を焼却できない」と、
女の先生に保管を頼みました。その先生は、母親と相談をして蔵にかくし、子どもたちには燃やしたと報告したそうです。
1977年に、その方から学校にもどされるまで 人形は蔵の中で年月を過ごしていました。
服装などはすべて当時のままです。


戦争がはげしくなり、戦死する兵隊さんがたくさんでてきました。
長島から戦争に出て行った人も戦死する人が多くなりました。
その人たちのお墓が東長島の墓地にありましたね。」
と入り、

@養海院の墓                     中野(19才)

A呼崎の墓        中西(17才)


B地蔵院の墓     
 (4人兄弟の上から3人が戦死、3番目は21才で戦死。4番目で生き残ったのがこの組の児童の祖父です。)

6月12日の地域探検で、子どもらとまわったお墓の写真を示しました。

C片上(熊野古道のそば) D片上(山側)の墓   (水口21才)
6月26日の2回目の地域探検の写真

F井ノ島の墓       G山本の墓
                   (「昭和二十年八月六日  広島原爆弾 戦死」の文字を紹介。1ページ加える)

H田山の墓

 (谷口22才)


8月3日に1人で校区の残りの墓を周り写真を撮ってきました。
今年はそれぞれの墓の写真とその人の名前と年齢を載せました。

(ホームページにアップしたものは1部です)

戦争がはげしくなりました。アメリカ軍の日本への攻撃も 多くなりました。

地域への空襲と関連させて、子どもらが地域を回り調べてきた防空壕を、6月26日第2回目の地域探検で見に行ったもの
をいれました。

I戸の須の防空壕2つ   (家の裏にある防空壕。水口さんが作ったもの)


J片上の「道の駅」の前の防空壕   (児童が母親といっしょに見つけてきたもの)


と熊野古道沿いの防空壕      (古道沿いにいくつも並んでいた)


こんな いなかにも攻撃がありました。 1945年 1月19日 1時 海山の便の山に 爆弾が落とされ、二人がけがをして 
家が1軒こわれました。 3月17日 夜の2時 上里の山に しょういだんが 1000発も落とされ、山火事がおき、14人が、
死んだりけがをしたりし ました。 7月25日 朝の6時 紀伊長島の三野瀬の駅で 列車が攻撃にあい、131人が死んだり、
けがをしたりしました。

28日、朝の6時から夕方まで、尾鷲湾に 攻撃がありました。 船は たいへんな 被害を受けました。
この攻撃で 147人が 死にました。

1945年8月15日 日本は負けを認めました。
  天皇が直接国民にラジオで知らせました。

しかし 引本小学校の青い目の人形は  戦争がはげしくなってきたときに とうとう見つかってしまい、 こわされてしまいました。
東小学校の青い目の人形は、どうなったかわかっていません。でも記録がないということは壊されたと思います。
(だれたに聞いてください。)

戦争が終わり、人々は生きることに必死で、青い目の人形のことを忘れていました。 だいぶたちました。
学校を建て変えたり、すみずみまでの大そうじのときに人形が出てきました。 新聞やラジオ・テレビが報道しました。

今までに見つかった「青い目の人形」は、全国で280体ほどです。
三重県では9体が 見つかっています。

現在、見つかった青い目の人形は それぞれの学校で 大切に保管されています。
なお、アメリカへいった58体の 日本人形のうち44体はきちんと保管されていました。もちろん三重子も大切に保管されています。

1987年〜1988年に ギューリック3世(ギューリック博士の孫)により、「新青い目の人形」が
「青い目の人形」のある学校などにおくられた。 ギューリック博士の 「平和への願い」を 受けつぐために おくられた ものである。



2001年9月11日に世界は驚きました。  何が起きたのでしょうか?(国際貿易センタービルが飛行機で攻撃されて写真を示す)

最近の出来事!
2003年イラク戦争(写真)
2005年トルコでのバス爆発(写真)
2006年レバノン空爆(写真)
アフリカの難民キャンプ(写真)  


最後は、ソマリアへ海上自衛隊が護衛艦を2隻出していることを付け加えて終わりにしました。

(今もまだ、「戦争」続いていることに触れる)

 おしまい

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